久しぶりに帰省したら、駅前の広場付近のあちこちに囲いがしてあった。工事中の。
噴水は水も枯れ果て中心に立つシンボルの如来様もいなくなっていた。
(善光寺のどこかに一時避難しているらしいと姉からの情報でちょっとホッとした)
以前大改造され、今の形になった長野駅、私が子どものころは鳩がたくさん集まっていたところだ。
放射状の電気の棒(蛍光灯だったのか?)にずら〜っと並んでとまっていた。
もちろんその下には糞がいっぱいあった。
切符を売る小さな窓。
木製の改札口。
木製のしきりのところに座らせてもらって、もうすぐ出てくる伯母やいとこをウキウキしながら待っていた子どもの私。
今ホテルになっているところは、父の勤め先があったところだ。
頑丈そうな太い木の階段が三段....いや四段上ると薄暗い感じの入り口へと続く。
そんな駅風景がきれいに消え去り、今風な駅舎に生まれ変わったのはいつごろだったのか....もう思い出せもしない。
かすか〜な記憶さえもどんどこ薄れていく。
新しい風景に書き換えされると、以前の風景の記憶はふっとんでしまい、「上書き保存」しかできない悲しいアタマの私だ。
駅前広場のところも新しく整理整頓され今までとはまたちがう風景になるのだろう。
避難中の如来像がもどってきたら如来像込みの空を見上げたいと思う。
時々の帰省。
どんどん意味がかわっていく。
帰る場所もかわる。
しかし長野駅についたとたんにかぎとる匂い、それはかわらない。
そして「別名で保存」されたかすかな思い出をなんどもなぞり、私の入り口とする。