
意にそぐわない労働と気のつかいかたをしてきて疲れきった目と身体、いっちょポアロにスカッとさせていただこうではないか!と二枚レンタル。@TSUTAYA
「ゴルフ場殺人事件」と「エンドハウスの怪事件」
今晩は......怪事件の方で気力の立て直し&ケアを試みようと思う。
明日は、作文ふたつと下書きの絵を三枚の楽しみな大仕事が待っている。
二枚借りて200円、ポアロはいろんな人の味方。
アタシもできたら感謝の意を込めて、ブローチのひとつぐらい差し上げたいと思ってはいるのだが....。
ジャパーニーズらしく、帯留めを改良したブローチとかさ。だめ?
ブログやフェイスブックで、お雑煮の画像よく見かけた。
地方々によって色んな種類がある。
名古屋のブログ友のところでは、お餅と餅菜という葉野菜だけのお雑煮だと書いてあった。
九州では(ムコ殿の出身地)味噌仕立てで豚汁のような具にお餅を入れるのだと。
以前に聞いた九州の友だちは、アンコ入りのお餅で味噌仕立てのお雑煮だといっていた。
実家のお雑煮は、おすまし汁だったが、いくらが乗っかっていたような気がする。
ナンシー関さんのエッセイに「正月のハードル」について書かれていたのがあった。
昔(といってもナンシーさんが若い頃)は新年を迎えるにあたり、やらなければいけない事柄がずっと多く「これをしなければ年を越せない!」強迫観念にも近かったと。
特別で神聖感さえある日々。
年末年始は家族みんなで過ごし、年越しカウントダウンコンサートだとかに子ども同士で行く事など暗黙のうちに許されなかったと。
みんなそうだったよね〜と思った。
1977年の年末、私は東京の下宿先のアパートの一室でたったひとりで正月を迎えようと決心した。
それは「決心」という言葉でも使わなければ、決行できないほどの大決心であったのだ。
女子ひとり、年末年始を過ごそじゃないか!と。
なぜか緊張と興奮で胸は高鳴っていた。
ワクワクワク。
セブンイレブンは、文字どおり朝7時から夜の11時までの営業時間のころであるが、当時31日や1日は営業してなかったし、もちろん多くのお店はお休みだった。
灯油も買った。カップラーメンも買った。
買いだめなんぞし、越冬隊の気分で備えた。
ほしかったMJQも買った。
そして意を決して母に電話をし、年末は帰らないむねを伝えた。とたん怒られた〜〜!こっぴどく。
「バカをいうんじゃないっ」
そりゃ愚娘であるが、帰省してくると疑わなかった娘が帰ってこないとなれば、怒るであろうな。
電話は父に代わり、怒られ×2。さらに倍、ドン。
それはまあまあ想像していたことだったので、
「卒業制作が間に合わない。年末年始もやる。提出が間に合わないと卒業できないから」
と宝刀をぬいてやった。(ウソじゃなかったけど)
父母、ややひるんだようだったが、正月をひとりで過ごすことは残念ながら許されることはなかった。
「31日から親戚の家に行きなさい!」(@鎌倉)とすぐさま伯母と連絡を取り合ったようで、伯母からも電話で、怒られ×3。
「絶対にうちに来ること」といいわたされ.....。
伯母は私のことをあわれに思ってくれたらしいが。
そして、すごすごと伯母の家に向かったのであった。
お節料理やあったかいお雑煮がたっぷりと待っていたが、私はアパートに残してきたカップラーメンやジャムパンを愛しく思っていた。
今思うのだ。
あの時、理解されづらくとも本心をいうべきであったなと。
「ひとりで年越しをしたい。特別な日をひとりで過ごしたい」と。
「どうして?」
と聞かれたら、説明できなかっただろうけどさ。
なにかを見たい.....という想い。
今年も家族全員で年末年始を過ごした。
娘は結婚したので、お雑煮のお椀の数も増えた。
スーさんにもお餅ひとかけら。
幸せなことだと思う。
これから先、望む望まないにかかわらず、ひとりで過ごす年末年始がくるやもしれんだろう。
しかし強く望んだ「1977年あの日の過ごし方」だけはもはや訪れることはない。
22のアタシの見たかったものは、いったいなんだったのだろう。
老眼が進んだ今じゃぜったいに見れんもんだっただろう。